dia-lag

ひとりで考える・書くことの限界を少しだけ押し広げるための装置としての交換日記、または遅い会話

【2016.10.15 - 2020.12.30】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手続き

1.はじめに

 書くという行為は読むという行為なしには成立しない。むろん、他人に読まれることのない文章をきわめて私的に、内密に、秘密裏に書き記すこともおそらく不可能ではないのだが、書く者もまた文字が書き出されたその瞬間に読む者へと転じてしまう性質をもつ以上、そこにはやはり読むという行為が同時的に発生してしまう。それでもなお、真っ暗闇のなかで文字が書き出される媒体を認識することなく文章を書き、書き終えた直後に廃棄するだとか、インクの切れたペンで筆跡を残さずに書かれた文書だとかを想定すれば、読みに接近することなく純然に書くだけの行為が成り立つのではないかと思わないこともないのだが、これはこれで、文字が書き出される瞬間どころか書き出される直前に書き手はその文章を読んでいるのではないかとか、読みが不可能な文章とやらを書く動作は「文章を書く」という営みに含まれるのかとか、さまざまな問いが生じる予感がする。
 書くという行為は同時に読むという行為を要請する。にもかかわらず、私は、文字を書き記すためには受け手=読み手の気配を消し去らなくてはいけないような感覚を覚える。具体例を挙げれば、一方で本稿のように特定の宛名が定まっているわけではなく、じぶんが思ったことを思ったままに、気の向くままに、好き勝手に文字を書き込むことのできる状況であれば文章が書けるのだが、他方でLINEやSNSのDMなど、宛先が特定個人に定まった文章を書くことはめっぽう苦手としている。一対一のテキストチャットを極力やりたくない、だからひとと連絡を取ることをとにかく避ける、そうした行動指針を立ち上げては自らに課してしまうほどには苦手としている。提出したテキストが読み手にいかに読まれるかは、書き手の意図如何にかかわらず読み手の文脈によってのみ読解される。文脈を完全に一致させることなど不可能であり、完全に一致した文脈の元ではそもそもコミュニケーションなど不要であろう。主観性の差異こそが私たちにコミュニケーションを要求し、私たちのコミュニケーションを成立させる。その意味では、あらゆる読みは誤読であり、あらゆる解釈は誤解であり、誤読や誤解がなされることは何ら誤りではない。こうした前提があるにもかかわらず、一対一のテキストチャットからは、相手に伝えようとする何らかを、なるべく誤解のないように、なるべくわかりやすく、つまり読み手の文脈に合わせようとする意識を強烈に抱きながら、それでいてなるべく迅速に伝達しなくてはいけない、という責務を書き手に負わせてくるような印象を受ける。さらに、迅速に送信されたテキストが即座に相手に届いてしまうことが、その責務に一層の重みを加えてくる。その重すぎる責務、到底果たすことのできない責務にはむろん応答不可能であると、私は自明のごとく判断している。終いには、その責務が与えられようとすること/応えようとすることから、私が私であることを暴力的なまでに強いられているような気がしてならず、この不快感がどうにも拭えない。以上のような事情から、LINEを主とする特定の受取人が見え、かつ、素早い反応が求められるメッセージのやりとりを、とにかく億劫に感じている。こうした事例を省みて、私自身が文章を書く際には、読み手の気配を消し去る手続きが多かれ少なかれ必要なのだろうと考えている。前段も踏まえて言えば、文章が記されるその瞬間を見届けているのは文字を記す最中にある私しかいないこと、また、文章が読まれるその瞬間を見届けているのは文字を読む最中にある者しかいないこと、そこに生じる隔たりが、文章を書く/読むという営みにおいて重要な点のひとつであるように考えている。
 こうした問いについて、たとえば、哲学者のジャック・デリダエクリチュールの機能に固有の性格として〈不在〉に注目している。

 書かれた記号は受け手の不在において差し出される。この不在をいかにして資格づければよいのか。私が書くとき、受け手は私の現前的知覚の領野に不在であることができる、と言うことはできよう。しかしこうした不在は、遠ざかった現前、遅延した現前、あるいは何らかの形態のもとで自らの表象において観念化゠理想化される現前、たんにそういったものにすぎないのではないか。いや、そうは思われない、むしろ、エクリチュールが存在するというのであれば、エクリチュールの構造が構成されるためには、すくなくとも、現前からのこうした距離、隔たり、遅延、差延[différance]が、不在であることのある種の〈絶対的なもの〉にまでもたらされうるのでなければならない。
──ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」(『有限責任会社』高橋哲哉・増田一夫・宮﨑裕助訳、法政大学出版局、二〇二〇年)

 

2.はじめに に

 本稿は「交換日記」という形式によって提出される。交換日記。交換する/される日記。「日記(にっき)は、個人が日々の出来事を記録した文書である」とフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』は2020年12月13日(日)04時57分時点において定義している。ほかをあたると、たとえば鴨下信一『面白すぎる日記たち逆説的日本語読本』(文藝春秋、一九九九年)では「日記というのは簡単に言ってしまえば自分が見たり聞いたりした事実、つまり取得した情報と自分が行動した事実、そしてそれに関する自分の感想を述べること」だと示され、また、西川裕子『日記をつづるということ 国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館、二〇〇九年)では、「日記」を「自伝/伝記/歴史/私小説/小説」という近接ジャンルと比較したうえで「日記にはその日その日における記述という分断が特徴であり、その日の日記執筆者にとっての「事実」が記され、執筆者自身の読書行為によって消費されるという特徴をもっている」とされている。総括すれば「個人的な事実やそれに対する感想」が「一日を分割単位に記される」文書が日記であると言えよう。したがって、ここまで私がしてきたように、書籍やウェブサイトの記事の引用に多くを割いて文章を書いていること、また、その文章によって「日記」なる文書が持つ特性の合意形成を図ろうとしていることは、日記を記述する態度として相応しいとは言えない。
 だから、日記という体裁を保つべく、ある出来事をある日付に紐づけながら粛々と記していくべきなのかもしれない。

 上記の文章を2020年12月26日12時43分から書き始めた。14時02分に一度書くのをやめる。14時04分、まだ昼食を摂っていないことに気づく。冷蔵庫を開けてもめぼしい食材がなかったため、フルーツグラノーラを食べる。14時52分、外出する。明大前駅近くの古書店・七月堂に行く。普段は降りない駅の、初めて行く書店へ向かうことの慣れなさから、道を何度も間違える。お店にたどり着き、店内の本を何を探すでもなく眺める。16時02分、4冊の詩集を購入する。会計の際、買おうとした詩集を眺めたお店のひとから「この選び方は、詩をよく読まれるんでしょうね」と言われる。「いやあ……(笑)」と言葉を濁した私が詩に関心を持ち始めたのは最近のことだ。「ご自身でも詩を書かれるんですか?」と訊かれ、必死に否定する。書店を出て、帰宅する。途中、自宅の最寄駅近くのスーパーでタコを購入する。自宅に到着し、たこやきをつくる準備をする。たこやきを焼く。たこやきを焼く様子をYouTubeで配信する。配信が終わり、たこやきを食べ終え、適当に動画を見て、疲れを感じたので眠りにつく。時刻不明。
 2020年12月27日。9時過ぎに目を覚ます。フルーツグラノーラを食べる。前日にプリントアウトしていたウェブサイトの記事を読む。映画を観ようと思う。パソコンで「prime video」を開き、〈あなたのためのプレビュー〉との小見出しとともに表示された『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』のサムネイルを一瞥したのち、『映画としての音楽』(監督・七里圭)を再生する。12時38分。広告映像として『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の予告編が流れる。広告映像が終わり、画面が黒くなる。波の音が聞こえる。本当に波の音かはわからないが、少なくとも波のような音が聞こえる。部屋が映し出される。奥のベッドでひとが寝ている。波打つ海の映像に切り替わる。無音。先の波の音が想起される。映画を再生する前に冷蔵庫から取り出していた缶ビールを開ける。缶には〈KIRIN’S CRAFTSMANSHIP GRAND KIRIN IPA〉と書かれている。ビールを口に含む。ほのかな苦味が舌のうえに広がる。その間も映像と音が再生されつづけている。画面にいくつもの文字列が浮かびあがっては消えていく。〈そこはにぎやかな場所だった〉 装着しているヘッドホンからは何名かのひとの声が、英語や言語にならない音として絶えず聞こえている。〈私が彼女を知ったとき、/彼女はすでに何もかも/知っているようだった〉 ビールを口に含む。12時49分。歌声が聞こえ始める。画面上に数字があらわれ、カウントダウンが行われる。数字がゼロになると、歌声は止まり、まばらな拍手が起き、また何名かの話し声や叫び声が聞こえ始める。またカウントダウン。そして歌声。画面上には文字列。しばらくすると文字列は消え、画面中央にかまくらのような形の光が浮かぶ。トンネルだろうか。カメラは光に近づき、トンネルから抜け出ようとする直前で光は消えていく。岩陰のようなところから見える海の映像。国を発見することについて語る声。白い画面。波の音。入り乱れる複数の声。カウントダウン。画面が黒くなる。白い球のような光が転々と弾みながら小さくなる。あらわれては消える文字列。〈聞くとは、/振動から/何かを知ること〉 画面右上に靄がかかる。〈録音によって、/映画は音を手に入れた〉 また煙があらわれる。録音されたひとの声は錯綜するように絶えず聞こえてくる。13時06分。〈録られた音は、出来事の痕跡〉 無数の木の枝。〈その時間は、どこに在るの?〉 カウントダウン。海と岩壁。語る声。13時09分。また暗転。文字列。〈再生する〉 月と海。月に焦点があたっていて、海はぼやけている。同じ台詞を同時に語る二人の声。三人目があらわれる。ひとりが消えたりあらわれたり、語りが掛け合いになったりする。(たぶん)バイオリンの音が鳴っている。別の言語で語るもうひとりの声もする。多重化する声、声、声、声、月が消え、また昇り、鳥が画面を横切って、月と、海と、鳥の動きから感じられてしまう、ずれ、断層、映像と音の両者で複数のレイヤーが重なって、固有の時間を持つさまざまな波形、多層化する時間。暗転。語り。海と岩壁。楽器の(ような)音と合唱の(ような)声。〈見えているのは現実ではない〉〈見えているのは/像だ〉 海が荒れている。心なしか合唱の(ような)声も熱を帯びている。かと思えば、凪いだ海の映像に切り替わる。しかし、音は喧騒を止めない。海辺。ぴたりと音が止み、波の音と映像だけが流れる。そして、また喧騒。〈音も、光も、波だから、/同じ記述ができるそうだ〉 13時24分。川の水面。木の枝。ひとの影。語る声。暗転。カウントダウン。歌声。文字列。冒頭に映し出された部屋の映像に切り替わる。ベッドのうえで寝ていたひとは、もういない。花柄の壁。海、岩壁。揺れる水面に映る木の枝。人影。歌声。缶ビールが空になる。13時02分。ひとの顔。海。穴から顔だけが出ていて、首はだらりと垂れている。暗転。歌声はつづく。歌声が止む。クレジットが表示される。バイオリンの音。〈録音 池田拓実〉 何かを語る声。画面は黒い。〈オスカー・ワイルド作「サロメ」/日夏耿之介訳/「院曲撒羅米」より〉 13時38分。〈監督・構成 七里圭〉 映画が終わる。これらの文章が、13時57分から、自宅近くのマクドナルドにて書き出される。

 

3.はじめに に に

 日時に紐づけて見聞きした出来事が無味乾燥に書き並べられたとして、その文書は日記としての特性を獲得できているのだろうか。たとえば、日記には備忘録としての機能があるとして、いつか上記の文章を読み返したときに何かを思い出せるのだろうか。少なくとも、この日この時間にビールを飲みながら映画を観たという出来事は想像できそうだ。あるいは、映画を見ていたという事実から、この日この時間には大きな災害に見舞われていなかったことを確認できるかもしれない。しかし、映画の内容そのものは思い出せそうにない。映画を見ながら考えていたことも思い出せそうにない。映画を見て書いた上の文章は映画そのものではなく、映像を言語に変換することなどむろん不可能なのだから、当然といえば当然のことだ。これがたとえ映画でなくとも、出かけた先での出来事だとか誰かとの会話の内容だとか自宅から駅まで歩く最中の情景だとか、とにかくすべての出来事において、それを言語で表現しようとすることができる一方で、取りこぼすことなく言語に変換することは決してできない。見聞きした出来事を脚本に、言語で演じることしかできない。言語は出来事そのものではない。

 数年前に数日だけ書いて途絶えた日記がある。ノートを開くと、2016年10月15日(土)に、出身地である秋田県に帰省をして高校の同級生と食事をした、という記録が書かれている。
〈最悪だった。二人の話を聞いてて怖くなった。環境や意識や情報量の差は確実に人としての質に表れる。閉塞的な地でそこにまんまと飲まれるような生き方をしていたら絶対に良い方向へ進めるわけがない。二人の視線は過去を向いていたし、視界も狭かった〉
「人としての質」というフレーズを見て怖くなる。「良い方向」というのもよくわからない。しかしとにかく、かつての友人二名と久しぶりに会ったが、話が合わず退屈だったようである。文字に現れる傲慢な態度を、若気の至り、と一蹴してしまうのも手だが、たかだか四年前のことをそう簡単に片付けてしまってよいのだろうか。ただし、思い返せば、というか思い返すまでもなく、上京してから数年の間は、秋田(地方)と東京(都市)との文化の差に驚き、恐れおののき、未来に怯え、ものすごく焦りを感じていて、その頃に書かれた日記であることがじぶんにはよくわかる。ただでさえ学のないじぶんはこのままでは誰にも相手にされなくなるだろう、だからもっと勉強しなければ、寝る間を惜しんで学びに努めなければ、そんなことを考え、朝の3時に起床して本を読んだり映画を観たりしてから出勤し、帰宅したらエナジードリンクを飲んで気合を入れつつ、限界がくるまで本を読んでから眠りにつくというような生活を送ったこともあった。抱え込んでしまった焦りと焦りゆえに乱れた生活のせいか、心身に異常をきたし心療内科へ通うこともあった。当時の切迫した心境を踏まえれば、また、当時の切迫感のおかげで焦りを克服した穏当ないまがあることを思えば、どうにか教養を培い、どうにか文化を知り、どうにか社会と接続しようと躍起になっていたじぶんを、反省することはあれど強く責めることはできない。それが結果的に乱暴で排他的な姿勢であったとしても、だ。一方で、そうしたことは2016年10月15日(土)当時の私とその出来事とは何ら関係のない話ではある。
 こうして経験した出来事から表現された文字情報から、事実(めいたこと)が想起される。経験した出来事と、経験した出来事から表現された文字情報と、想起された事実(めいたこと)とは、それぞれ異なるものである。同様に、2016年10月15日の私と2020年12月27日の私はどうも同一人物であるらしいのだが、そこにはおおきな隔たりがある。隔たりを経て、何かを想起すること。つまり、書いた文章が読まれることで、書く行為と読む行為との隔たりが見出されること。書いた者と読んだ者との主観性の重なりから浮かび上がるこの隔たり、ずれ、断層こそが日記に欠かせない要素と考えてみるのはどうだろうか。

 本稿は「交換日記」という形式によって提出される。交換日記。交換する/される日記。私の日記を受け取る相手がいて、私自身も相手の日記を受け取ることになる。現在の私が身体という共有物をきっかけに読んだ過去の私が書いた日記から、ずれを読み取ったように、同時代を生きる者らが日にちや時刻などの共有可能な記号を頼りに、主観性を重ねながら隔たりを受け取り、また新たな日記を書き出していく。その過程では、多分に誤読 mis-reading が、多分に誤解 mis-understanding が行われることだろう。それでもなお、互いが私的に書いた文章を、ずれを抱えたままで循環させつづけることに、ひとつの目的や意義があるような気がする。だから、この「交換日記」という行為は、誤 mis- を許容するための適切な距離と速度を取り戻していくための試みなのだろうと理解している。
 それ自体が誤解だった場合の言い訳や屁理屈は、あとで考えておけばいい。

 2020年12月27日18時07分、本稿が一旦書き終えられる。
 2020年12月30日15時47分、推敲。