dia-lag

ひとりで考える・書くことの限界を少しだけ押し広げるための装置としての交換日記、または遅い会話

【2021.1.9-1.23】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手つき

■概要(ぼんやりとしたまとめ)
 同じ姿勢で座り続けていたら、首や肩や腰のあたりが凝り固まってしまう。スマートフォンの操作という習慣に応じて変容した背筋首筋は大きく曲線を描いていて重心はずれるし骨盤も歪んで関節や関節周りの筋肉は負担を強いられている。ただでさえ直立二足歩行と重力との軋轢に挟まれて膝や腰は日夜苦しんでいるというのに。ひと休みしようと椅子に腰掛けたはずが、均質に整えられた硬くて平べったい椅子が身体に安息をもたらすはずもなく、腰を下ろしてみても一、二時間も経てばまた疲労を感じてしまっている。だけど、こうした凝りや疲労感はいつものことだから、いつものように受け入れて、抑圧がもたらす習慣と習慣がもたらす抑圧を基準に身体や身体から伝わる感覚の方を調整しようとする。
 それでもふと、ちょっとした息抜きに、軽く背伸びをしてみる。普段は動かさない、でもほんとうは動かせるはずの方向へ、腕を伸ばしたり、関節を回したり、背中を反らせたり。骨が軋むような音がする、いつもと異なる重力を感じる。日々の抑圧に縮み込んだ身体を緩ませてあげるための奇妙な抑圧。内面化した制限を押し広げていくための奇妙な制限。強い痛みを感じない程度に、かつ、可動域を拡張するように少しずつ負荷をかけていく。

 私が私であってしまうこの身体。そのどうしようもなさを一度括弧のなかに入れて、どうにか働きかけてみる。
 私の歩き方、書き方、話し方、怒り方、逃げ方、疑い方、敬い方、振る舞い方、選び方、消し方、戸惑い方、求め方、寄り添い方──あらゆる動作に染み付いてしまった私の匂いが、どんな位置にあって、どのように周辺が広がっているのかを確認し、把握できるかぎりの全体図を見通してみる。私が内包された環境と身体の象られ方を捉え、その外部まで視野を広げ、見えてきた全体像の中で私の再配置を試みる。そのためにどんな手段や方法論があるのか模索してみる。
 透明な檻に捕捉された私たちの身体や思考は、あるいはそれらを象る環境の形態は、きっともっと多様で可能性に満ちているはずだから。

 その手がかりとして、たとえば、私が書く文章の途中で他人が書いた文章を引用し挿入してみることで、みずからの書き言葉の相対化を図ってみるのはどうだろう。

相手の言葉に触発されて普段と違う考えがひらめいたり、相手に伝えようとすることで思いがけない表現が飛び出したり、また脱線を繰り返すことで話題が次々に変化したり、ひとつの話題の中でも次元の違う視座に辿り着いたり。人と話すこと、特に目的のない雑談においては、ひとりでは体験し得ない様々なことが起こります。
──niina「「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます」(はてなブログ『dia-lag』2020.12.29)

 この文章からは、私が書く文章とは異なるリズムを持ちながら、それでいて私が上記した文章と内容レベルではきっとそう遠くはない、という不可思議な類似が感じられる。
 他者が私に介入することで生じる〈ひとりでは体験し得ない様々なこと〉。これは、私が私でありながら、しかしその私なるものをあくまでひとつの素材として扱い、共同作業によって手が加えられることによって強いられる身体感覚の変容を意味していると言えないだろうか。いまこうして、他者の(どこか近接しているようで、しかし明らかに異なる)表現を用いながら新たな文章を書き出しているように。
 そして、こうした変容の過程によって身体の外側へと私を分散してあげられるような試行/実践の場を持てないだろうかとこの頃強く考えていた私にとって、交換日記という形式で複数人で循環させながら文章を書く営みには、求めていた場として機能してくれそうな、そんな予感を抱かずにはいられない。
 というようなことを、最初の手続きとして初回の記事でも書いたつもりでいる。

 今回はこの試行/実践の場で、いかなる手つきを用いるか、についてのアイデアを書き記しておきたい。

■目標(なにを?)
 私が環境に対する反応で生じていること、私の身体は私の中心ではないこと、この身体は絶対的な境界線ではないこと、つまるところ、私は絶対的で固有な存在では決してないということ。こうした前提に立ち、文章を書く/読むという行為を(とりわけ複数人の共同で行うことを)通して、果敢に身体をつくりかえていく。また、そうした営みが可能な場を整える。

■目的(なぜ?)
 「私は私である」という主体観に対し、「私が私であってしまう」という途方に暮れてしまうようなどうしようもなさを感じてしまうから、「私を私にしてしまう環境」に焦点を当てることで自己同一的な主体観を解体し、「私」のありようを再検討する。
 私が私であることの責任を放棄したいし、一貫性なんて重荷だから。とにかく無責任に。

■手法(どうやって?)
 先に行ったように、他のメンバーが書いた文章や語句を引用したり使用したりする、という手段をまずはとっかかりにしてみよう。自らの身体からは自然と出てこないような言葉を文章に織り込んでいく。手にする道具に合わせて身体や感覚のありようが変わってしまうように、遠くにあった言葉を引き寄せ、抵抗や馴染まなさを感じながら文章を書き、自らを相対化し、身体をも書き換えていく。そんなことを目標に据えてみる。
 同時に、自らの身体からつい出てきてしまいやすい語句の使用を制限してもよいかもしれない。
 とにかく、書く/読むという共通の行為を軸に多人数で持続的に行うことを目的とした動きのなかで、試せそうなことに挑んでみる。うまくいかなくたっていい。なによりも、試行/実践の過程こそが重要であるとひとまず考えておこう。

 では、具体的になにができそうか。
 たとえば、上記で引用したniinaさんの文章から、じぶんが書いたことに近しい文意を感じてしまうのはなぜだろうか。こうした問いを個人的な印象で片付けようとせず、最初の一歩は何も考えずさくっとテキストマイニングにでもかけてしまうとよい。客観的で確実なデータを介入させることで何かが見えてくるかもしれない。
 テキストマイニングを行えば、以下のように文中の頻出単語などが即座にわかる。

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「「dia-lag」(ダイアラグ) はじめます」- dia-lagのテキストデータを素材に、「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 「「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます」では、どうやら「日記」「会話」「思う」「書く」などの語が多く使用されているようだ。「交換日記」に対する思いが記された文章であることが使用する単語にもあらわれている、と言えそう。

 つづいて私が前回書いた記事の頻出単語を見てみよう。

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「【2016.10.15 - 2020.12.30】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手続き」 - dia-lagのテキストデータを素材に、 「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 この記事でも日記について──ひいては文章を書くことについて──記されていることから、先に見たデータと同様に「書く」「日記」という語が多用されている。また、「文章」「読む」「出来事」なども類する単語として挙げられそうだ。

 と、こんな塩梅で頻出単語を抽出して並べるだけで、少なくとも意味的に親縁な語を多く使用していることが明らかであり、部分的にはこの2つのテクストは近しい主題を扱って書かれたものであると言えるのかもしれず、文体こそ違えど不可思議な類似とやらを感じてもおかしくはないことがなんとなくわかる。
 客観的な類似性を確認するところまで機械的にはっきりさせておくと、じゃあ差異はなんだろう、逆に対立するところはどこにあるだろう……などと次のステップに進みやすくもなる。複数人で書く/読むことについての文章で、一方では「会話」というモチーフが使われていて、他方では「映画」というモチーフが使われていることからは何が見えるだろうか、その異なる二つの考えを用いて何かを生み出せるだろうか、とかね。

 この調子で全員分の初回の記事のテキストマイニングを行い、結果を比較・参照しつつ、あれこれ遊んでみようかなと思っていたのだが、体力にも限度があるから、今回はこの程度に留めておく。じぶんの文章を分析とか参照とかされるの嫌だなあ、という方がいたらその旨お伝えください、再考します。
 ただ、断りの申し出により試行案に取り組めなくなってしまうと残念でもあるから、いまのうちにいま公開されているすべての記事ごとの頻出単語だけでも並べさせてもらうとしよう。

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2021年1月23日以前に公開されたはてなブログ『dia-lag』内の全記事のテキストデータを素材に、「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 こうして5名が書いた文章にそれぞれ頻出している語を見ると、その多様さだとか、多様な中での近接性だとか、さまざま読み取りながらおもしろく眺めることができる。
 前述した「遠くにあった言葉を引き寄せ」ようとすることを念頭に置くと、エビカニペカンナッツさんの書いた記事の頻出単語は、私にとって特に遠くに感じられる。ここに挙がっている十個の単語をすべて使用して文章を書こうとしたならば、普段とは大きく異なる回路で文を考えなくてはならないような気がする。鳥、本能、理性、エサ……こうした語をじぶんはどのように扱えるのだろうか。まるでわからない。こうした抵抗感こそをどんどん引き受ける。引き受けて抵抗を和らげていく。そのための方法論を考える、試行する、試行しながらまた考える、意見をもらう、考えて、また試行する。そんなことをやってみたい。
 ね、なかなかおもしろいと思いませんか。

■懸念(ほんとうに大丈夫?)
 はたしてこれは「日記」なのだろうか。

■対策(ほんとうに大丈夫?)
 たまにはそういうことも試してみたい、ということにしておこう。毎回だと大変そうだし、やっぱり無責任でありたいもの。