dia-lag

ひとりで考える・書くことの限界を少しだけ押し広げるための装置としての交換日記、または遅い会話

ながいものにまかれて

 体格の差、というものはもっと生活規則に変化を与えうる要素として考慮されてもよいのではないか。
 というのも、そのほうが有利を得られそうな立場にいるからにほかならないのだが、裏を返せば現状不利を被っているのだと主張することもむずかしくはないだろう。

 昨年の健康診断を拒否しつづけたこともあり、最新の正確な数値こそ不明だが、かつて測定した数値を根拠としたおおまかな理解では、この動かし慣れたからだの身長は178センチということになっている。日本の成人男性の平均身長は171とか172とかということであるから、この時点では特に問題視する点は見つからない。
 さて、問題は体重である。身長と異なり、体重は時間経過で大きく変動するものであるからおおまかな理解なるものがどれだけ信用に足るかはあやしむべきだが、だいたい52キロくらいはあると思う。世界には身長に対する標準体重というものがあり、では178センチの標準体重はいかがなものかと見てみると69.7キロとのことである。ふむ。ここで判断を急がずに、つづいてBMIなる指標を参照してみる。18.5未満は低体重とカテゴライズされるこの指標において自身の体格から算出される値は16.41となる。ふむ……。
 と、まあ、いくつかの指標やら平均値やらに頼るまでもなく、みるからに痩せている。痩せすぎている。健康診断を拒否せずまじめに受けたならば、もっと体重を増やしましょう、などと言われること必至である。しかし、そう言われましても、というのが正直な心情で、こちらも意識的に低体重を目指した特殊な生活を送っているわけではなく、ときにはどうにか体重を増やそうと努力だってする。それでも増えないものは増えないのであり、医療機関から何を言われようと、まあ放っておいてくれというていどにしか返事のしようもない。
 それで、体重が少ないと何が困るのかといえば、体力がない。
 具体的にいえば、一日起きていられない。直立姿勢を保てない。食事が疲れる。ラジオ体操で筋肉痛。草食動物だったなら、まっさきに群れから置き去りにされ、トラなりヒョウなりの餌食になること間違いない。そしてあまりの肉の少なさに不満を抱かれること間違いない。さすがに殺生された身になってまで恨まれるようでは理不尽が過ぎる。
 あきらかに生存に不向きでしょうといって差し支えもなさそうな体つきであることに対し、もっと太りなされと世が小言を宣うことに筋は通っている。しかし言われるこちらとしては、標準はあくまで標準であり、標準があればむろん偏差があり、裾には例外だって生じているわけで、その例外を排除したり無理に標準に引き寄せたりせずにそのままひとつの個として包摂するのが人間社会の豊かさであり多様性云々が目指すところではなかったか、と言い返したくもなるのがしぜんな反応である。

 幼少期から食が細い。食が細いと意識したことはあまりないが、状態から察するにおそらく食が細い。「食が細い」という慣用句に対し、「食が太い」とはあまり聞かないことから食はあるていど太いくらいが一般的だと思われる。思い返せば、まいにちの食事を点滴で済ませたいと十代のころから長らく考えているが、ひとに話して共感をえられた試しがない。キャスター付きの点滴スタンドをペットのように連れて歩いたらかわいいではないか、と話した辺りで多くの相手はほかの話題に切り替える。
 無難な雑談を求められる機会は少なくないが、天気か食べものを話題にしておけばだいたいは乗り切れるものである。しかしこの食べものの話。こちらに用意された手札のひとつは「点滴」なのだから、無事無難に着陸できるかは若干の疑いがある。

 好きな食べものは何か、と問われたとき、返答に困ることが多く、とりあえず「おいしいもの」と答えていた。肉と魚はどちらが好きか、と問われたとき、何もたんぱく質にこだわることもないのではと、選択肢として提示されてもいない「野菜」をいつも選んでいた。べつにひねくれてみずからイレギュラーを位置取ろうとしているわけでなく、真面目に考えた結果ではあるのだが、それで無難が遠ざかるのだとすればいくらか戦略を練る必要がある。したがって、話題となることの多い上の二つの問いに対する回答は決めておくことにした。
 好きな食べ物はなんですか? とろろごはん。食べやすいから。
 肉と魚はどちらが好きですか? 魚。肉は噛むのが疲れるから。あと、場合により脂が重い。
 回答を用意しておくことにより食べものの話題を無難に落ち着けられるようにはなったのだが、好きな食べものはとろろごはんとはいうものの、食べる機会はさほどない。というか、二十歳を過ぎてから食べた機会は片手で数えられる程度しかないように思われる。丸亀製麺ではいつもとろたまうどんを注文しているから、とろろのみに絞れば食べる機会もそれなりだが、ならば好きな食べものは丸亀製麺のとろたまうどんとするほうが適切ではないか。
 これはよくない。と思い、とろろごはんを食べることにした。外で食べるものでもないから、自宅でつくるのがよいだろう。偶然にも、生かつおの刺身を食べるときにおろしにんにくがほしいという思いから、おろし金を最近買ったばかりである。おそらく長芋を買うだけでとろろがつくれるはず。と、さっそく手元のiPhoneでとろろのつくりかたを調べたところ、すり鉢があるとなおよいらしい。好きな食べものだと大見得を切るくらいなのだから、たしかにすり鉢なんかは当たりまえに用意されているほうが望ましい。具材から調理具まで、レシピにしたがい買い出しに行く。
 結果として、まあ、うまい。
 かつて家庭で出されたとろろごはんよりも確実にうまい。すり鉢の効果はいまいち感じられないが、どうも擦り方にコツがいるような気もする。ごまを砕くのとはわけが違う。現状でも満足できる程度にうまいながらに工夫の余地も多分にあるようで、せっかくすり鉢も買ったことだし、とその一週の間にとろろを三度つくった。根張星(ネバリスター)という品種の山芋があるようで、これがなかなかにうまい。舌触りが別格である。工夫の余地ありだった擦り方については、ただ漠然と棒をごりごり回すより、こまかく叩き潰すように動かすとなめらかさが増す気がする。
 毎日とろろごはんを食べていたこの数日は、朝晩問わず米を流し込むように食べられたこともあり、この食事をつづけられたならば容易に体重も増やせるのではないかとの期待、そしてとろろごはんへの好意は増すばかりであった。
 その一方で、とろろの品種や擦り方にまで口を出してしまうようでは無難な雑談としての使い勝手は悪くなってしまった感は否めない。こうなると、好きなものを話題に無難のまま終わることがはたして可能であるか、という向きに問いの修正を強いられているようでもある。好きなものについて話せばつい熱くなってしまうのがひとの常だろう。だって好きなのだから。中途半端には終われない。終わらない。終わらせたくない。とすれば、無難な雑談をするにはどうでもいい話がちょうどいい塩梅であり、どうでもいい食べものの話、せいぜいきのう何食べた?くらいの熱量が適度であるのだろう。よしながふみの漫画作品のタイトルがまさに「きのう何食べた?」であった。これも適度などうでもよさみたいなことが主題なのかしらんとつい適当な推測をしてしまう(なんせ読んだことがない)くらいのこのどうでもよさこそが、個々の趣味嗜好や特性やこだわりなどを緩衝させてはほどほどなひと付き合いを成立させているのだと、これまた適当な推測によるほどほどな理解を落としどころにすることで、ひとまず気を楽にはしていられる。