dia-lag

ひとりで考える・書くことの限界を少しだけ押し広げるための装置としての交換日記、または遅い会話

ながいものにまかれて

 体格の差、というものはもっと生活規則に変化を与えうる要素として考慮されてもよいのではないか。
 というのも、そのほうが有利を得られそうな立場にいるからにほかならないのだが、裏を返せば現状不利を被っているのだと主張することもむずかしくはないだろう。

 昨年の健康診断を拒否しつづけたこともあり、最新の正確な数値こそ不明だが、かつて測定した数値を根拠としたおおまかな理解では、この動かし慣れたからだの身長は178センチということになっている。日本の成人男性の平均身長は171とか172とかということであるから、この時点では特に問題視する点は見つからない。
 さて、問題は体重である。身長と異なり、体重は時間経過で大きく変動するものであるからおおまかな理解なるものがどれだけ信用に足るかはあやしむべきだが、だいたい52キロくらいはあると思う。世界には身長に対する標準体重というものがあり、では178センチの標準体重はいかがなものかと見てみると69.7キロとのことである。ふむ。ここで判断を急がずに、つづいてBMIなる指標を参照してみる。18.5未満は低体重とカテゴライズされるこの指標において自身の体格から算出される値は16.41となる。ふむ……。
 と、まあ、いくつかの指標やら平均値やらに頼るまでもなく、みるからに痩せている。痩せすぎている。健康診断を拒否せずまじめに受けたならば、もっと体重を増やしましょう、などと言われること必至である。しかし、そう言われましても、というのが正直な心情で、こちらも意識的に低体重を目指した特殊な生活を送っているわけではなく、ときにはどうにか体重を増やそうと努力だってする。それでも増えないものは増えないのであり、医療機関から何を言われようと、まあ放っておいてくれというていどにしか返事のしようもない。
 それで、体重が少ないと何が困るのかといえば、体力がない。
 具体的にいえば、一日起きていられない。直立姿勢を保てない。食事が疲れる。ラジオ体操で筋肉痛。草食動物だったなら、まっさきに群れから置き去りにされ、トラなりヒョウなりの餌食になること間違いない。そしてあまりの肉の少なさに不満を抱かれること間違いない。さすがに殺生された身になってまで恨まれるようでは理不尽が過ぎる。
 あきらかに生存に不向きでしょうといって差し支えもなさそうな体つきであることに対し、もっと太りなされと世が小言を宣うことに筋は通っている。しかし言われるこちらとしては、標準はあくまで標準であり、標準があればむろん偏差があり、裾には例外だって生じているわけで、その例外を排除したり無理に標準に引き寄せたりせずにそのままひとつの個として包摂するのが人間社会の豊かさであり多様性云々が目指すところではなかったか、と言い返したくもなるのがしぜんな反応である。

 幼少期から食が細い。食が細いと意識したことはあまりないが、状態から察するにおそらく食が細い。「食が細い」という慣用句に対し、「食が太い」とはあまり聞かないことから食はあるていど太いくらいが一般的だと思われる。思い返せば、まいにちの食事を点滴で済ませたいと十代のころから長らく考えているが、ひとに話して共感をえられた試しがない。キャスター付きの点滴スタンドをペットのように連れて歩いたらかわいいではないか、と話した辺りで多くの相手はほかの話題に切り替える。
 無難な雑談を求められる機会は少なくないが、天気か食べものを話題にしておけばだいたいは乗り切れるものである。しかしこの食べものの話。こちらに用意された手札のひとつは「点滴」なのだから、無事無難に着陸できるかは若干の疑いがある。

 好きな食べものは何か、と問われたとき、返答に困ることが多く、とりあえず「おいしいもの」と答えていた。肉と魚はどちらが好きか、と問われたとき、何もたんぱく質にこだわることもないのではと、選択肢として提示されてもいない「野菜」をいつも選んでいた。べつにひねくれてみずからイレギュラーを位置取ろうとしているわけでなく、真面目に考えた結果ではあるのだが、それで無難が遠ざかるのだとすればいくらか戦略を練る必要がある。したがって、話題となることの多い上の二つの問いに対する回答は決めておくことにした。
 好きな食べ物はなんですか? とろろごはん。食べやすいから。
 肉と魚はどちらが好きですか? 魚。肉は噛むのが疲れるから。あと、場合により脂が重い。
 回答を用意しておくことにより食べものの話題を無難に落ち着けられるようにはなったのだが、好きな食べものはとろろごはんとはいうものの、食べる機会はさほどない。というか、二十歳を過ぎてから食べた機会は片手で数えられる程度しかないように思われる。丸亀製麺ではいつもとろたまうどんを注文しているから、とろろのみに絞れば食べる機会もそれなりだが、ならば好きな食べものは丸亀製麺のとろたまうどんとするほうが適切ではないか。
 これはよくない。と思い、とろろごはんを食べることにした。外で食べるものでもないから、自宅でつくるのがよいだろう。偶然にも、生かつおの刺身を食べるときにおろしにんにくがほしいという思いから、おろし金を最近買ったばかりである。おそらく長芋を買うだけでとろろがつくれるはず。と、さっそく手元のiPhoneでとろろのつくりかたを調べたところ、すり鉢があるとなおよいらしい。好きな食べものだと大見得を切るくらいなのだから、たしかにすり鉢なんかは当たりまえに用意されているほうが望ましい。具材から調理具まで、レシピにしたがい買い出しに行く。
 結果として、まあ、うまい。
 かつて家庭で出されたとろろごはんよりも確実にうまい。すり鉢の効果はいまいち感じられないが、どうも擦り方にコツがいるような気もする。ごまを砕くのとはわけが違う。現状でも満足できる程度にうまいながらに工夫の余地も多分にあるようで、せっかくすり鉢も買ったことだし、とその一週の間にとろろを三度つくった。根張星(ネバリスター)という品種の山芋があるようで、これがなかなかにうまい。舌触りが別格である。工夫の余地ありだった擦り方については、ただ漠然と棒をごりごり回すより、こまかく叩き潰すように動かすとなめらかさが増す気がする。
 毎日とろろごはんを食べていたこの数日は、朝晩問わず米を流し込むように食べられたこともあり、この食事をつづけられたならば容易に体重も増やせるのではないかとの期待、そしてとろろごはんへの好意は増すばかりであった。
 その一方で、とろろの品種や擦り方にまで口を出してしまうようでは無難な雑談としての使い勝手は悪くなってしまった感は否めない。こうなると、好きなものを話題に無難のまま終わることがはたして可能であるか、という向きに問いの修正を強いられているようでもある。好きなものについて話せばつい熱くなってしまうのがひとの常だろう。だって好きなのだから。中途半端には終われない。終わらない。終わらせたくない。とすれば、無難な雑談をするにはどうでもいい話がちょうどいい塩梅であり、どうでもいい食べものの話、せいぜいきのう何食べた?くらいの熱量が適度であるのだろう。よしながふみの漫画作品のタイトルがまさに「きのう何食べた?」であった。これも適度などうでもよさみたいなことが主題なのかしらんとつい適当な推測をしてしまう(なんせ読んだことがない)くらいのこのどうでもよさこそが、個々の趣味嗜好や特性やこだわりなどを緩衝させてはほどほどなひと付き合いを成立させているのだと、これまた適当な推測によるほどほどな理解を落としどころにすることで、ひとまず気を楽にはしていられる。

「活動」をやっていく

フリーランスで仕事をしていると、仕事と仕事以外の境目がだんだんわからなくなってくる。時間も場所も心持ちも、仕事と生活の区分けがなくなっていき、シームレスにつながっていく。私の場合は好きでやっていることと仕事の領域がわりと近いので、なおさらそうなる。それが別にストレスだとは思わないのだが、いきすぎて「仕事」から帰って来れなくなったらどうしようという不安がある。

仕事(労働)なんてものは本来はしなくてもいいはずで、現行の社会の仕組み上は基本的にしないと生きていけないのでしかたなくやっているものだ(本当に心からそう思っているかは怪しいが、それくらいに強く意識しなければプロテスタントの労働倫理的な「労働=善」みたいな使用者に都合の良い考え方に絡め取られてしまう、という恐れからそう思うようにしている)。そんな仕事(労働)に侵食され尽くしてしまうのだけは御免だ。休息や娯楽の時間があったとしても、それらを仕事(労働)に耐えるためのものとしてしかできないのであれば、それもまた仕事(労働)に侵食され尽くしている状態だと思う。

そこで(意識的にというよりは、気づいたらそうしていたのだが)、一昨年あたりから少しずつ仕事以外の「活動」を積極的に行なっている(むぅむぅさんの文集作りにはかなり影響を受けている)。このdia-logもそのひとつだ。特に今力を入れているのが、短歌。数年前から作り続けてきたのだが、昨年賞に応募するために50首の連作を作ったので、それをまとめて小さな歌集を作っている(制作過程の詳細はこちら→ nari2180.goat.me/KlOIwMLKw0 )。お金のためではなく、また単に娯楽的な遊びとも違う、私が私のやりたいことをやっている!という充実感がすごい。べつにがんばらなくてもいいことなのにがんばっちゃうのがおもしろい。

最初の方で「『仕事』から帰って来れなくなったらどうしようという不安がある」と書いたが、今は「『仕事』に帰って来れなくなったらどうしよう」という心配をした方がいいかもしれない。「活動」は楽しすぎるので。

 

次はむぅむぅさんです。

 

没頭することがてきた日

すみません、めちゃくちゃ間が空きました。


間が空いた間に、職場が変わりました。

同時入社した人たちが3人いるんですけどね、

めちゃくちゃキャラが濃いんですよ。

話がめちゃくちゃ面白いし、自己紹介からもう強すぎる。


で、わたしは前職普通ーの会社員で

特に目立ったことはしておらず、

趣味も特にこれです!!みたいに自信を持てるわけでもなく


もうすぐ節目の年になるので、何か没頭することが欲しいな、となり、

お絵描きを最近始めました。


小さい頃から絵を描くのは好きだったんですが、

別に描き方を勉強するわけでもなく、

顔だけ描いてすぐ紙を捨てるみたいな

あんまり意味ないやり方をしていました。


なので、ぱっと見うまいかも?なんだけど

よく見たらバランスおかしいな?とか

頭がでかいな?とか、

まあツッコミどころが多かったので、


この際、ちゃんと絵を描いてみよう!と思いまして、

コピックやらApple Pencilやらで描き始めました。

そしてTwitterのイラスト垢に投稿して、同じ感じの絵が好きな人とわいわいしてます。


ほんとうにめちゃくちゃ楽しい。


仕事終わったらすぐスケッチブックかiPadを開いて、

自分の好きな顔を描いています。

すぐ時間が溶けます。


でも一つ悩みは、

私に引き出しがないこと。


小さい頃は、自分で考えて

ファンタジーな服を描いたりしたものだけど、

もうそれができなくなっていた。


何か見ないと描けない。

ポーズや表情を自分で思い描けない


もう少し、世界への解像度を上げていきたい。

たくさん素敵なものを見て、素敵な人と話して

心のアルバムに乗せていって、

それを表現できる人になりたい。


それが絵じゃなくても、言葉でも仕事でも。


自分の感情がぐらぐらしても

それを表現で昇華できたら最高ですね。


時間を忘れるほど何かに没頭するのが久しぶりなので

この気持ちを残せる場所があって良かった。


とか言って、ほんとうに更新遅れてごめんなさい



次はぶんちんさんです。

大掃除、あるいは生活のデフラグ

2021年8月9日。連休最終日、家中の掃除をした。

きつい風邪で有給を消費したりして数日寝込んだが、無事に全快した。
お久しぶりです。エビカニペカンナッツです。


ここ数か月わけのわからないくらい働きづめだったので、後回しにしていたことがたくさんあって、それらは家に長くいるとひどく目についた。


風邪はなにより心を弱らせる。

寝る以外に何も出来ない時も気は焦り、思考はせわしなく飛び交い、不安は昼なお暗く、寝室を覆いつくす。
寝床で体を起こせないような痛みに呻く、持病の憂鬱が猛威を振るう。同居人に自分の不甲斐なさを嘆き、迷惑を詫び続ける。
熱そのものより体調を崩した時の自責の念のほうがよっぽどつらい。体調はいつか回復するが、体質はそうそう変わらない、はずれくじを引いた、いやいや恵まれているほうで、問題は甘えた根性だ 何度も自問自答を繰り返す。
ぐらぐらする視界のなかで生真面目に毎日飲んでいるサプリメントを取りに行き、最大限の栄養補給をし、今後の対策を考え、こんなに死にたいのに…と面白くなりながら薬で寝た。

 

とはいえ何日か転がっていると元通りになり、比較的前向きで建設的な思考が戻って来て、まず取り掛かったのは大掃除だった。

 

家の散らかりは万病の元だ。

特に自分はアレルギーが酷いので高頻度で掃除する必要があるけど、深夜に帰ってきて毎晩全てを清めて寝る、なんて芸当は流石に出来ず、マスクをして寝ている。が、結局鼻炎起因で発熱したのでまずはマットレスに風を通し、寝具を順に全て洗った。

ベッドサイド周辺の棚なども磨き、床を入念に掃除機で吸った後、拭き掃除をした。
若干マシになり、これ以上はぼくの鼻粘膜を焼き切るほうが早いことがわかった。

 

勢いづいたぼくは、そのままクローゼットやタンスに放置していた冬服を手当たり次第に洗濯乾燥機に放り込み、ぎゅうぎゅうと圧縮袋につめた。

随分着ていない服は袋に詰め、古布回収に出すことにした。過去にほぼ毎日着ていたようなお気に入りの服も、迷ったが、詰めた。

服の役目を終了させるのは象徴的な行為だ。過去との決別で、清算で、新しい自分を受け入れる、そんな気分で感謝を伝えながらこちらもぎゅうぎゅうと回収袋につめた。

 

大学一年の時に購入し、洗濯するたびに「もう寿命だ、捨てなければならない」と言い続けてきた、ボロボロのネコ柄バスタオルも、遂に端切れ雑巾にして ーコンロの油汚れを磨き、シンクを清め、サッシや洗面所やトイレ磨きに使用しー 入念に弔った。

それから家中を掃除機掛けしたあとにウエットとドライのクイックルワイパーで執拗に磨いた甲斐あり、くしゃみは止まった。

 

大掃除は禊に近い。過去を払い、清めて、明日を迎えるためのリソースを確保する。

それでいうとデフラグも禊なのかもしれない。*1

他にもなにか片付けておかなければならない事があったはずだ。積読の山とか、扇風機の裏の埃とか、雑に突っ込んだフィルムのストックとか、本棚の整理とか、ああ、そうだ、交換日記だ。

かくしてぼくは交換日記に辿り着いた。みなさんお待たせいたしました。たいへん、たいへんお待たせいたしました。

ぼくは人間らしい心と部屋と、健康を取り戻し、文字を書く力を取り戻し、喧騒から解き放たれ、窓からは木々を通り抜ける幾分涼しい風と、鳥と、虫の声が響く部屋で、とうもろこしを食べながら、ようやっと、ようやっと心を落ち着けて日記を書いたのでした。

 

ーーー

以下は蛇足であり、ぼく、及び同居人の名誉のために記す部分である。
日記だとあまりに家が酷い惨状のようだが、同居人はまともな人間なので一般的な清潔さは保たれた家にいる。
ぼくも掃除自体は好きだ。蓄えた化学の知識を一番身近で役立てることが出来る行為なので料理と掃除は楽しく、ストレスの解消になる。
しかし事実として、ぼくは極端に整理整頓が苦手だ。

理由はぼくの特性が大半を占め、次にぼくの性格が効いてくる。

ぼくは極端に得意なことと苦手なことがある類の人間で、ワーキングメモリが”終わって”いて、視野が異常に狭い。
視野に入るものは本当に高精細で劇的に美しく見え、すごく些細な違いや性質にも気づくけど、あとは本当になにもわからない。
視野が狭いので部屋全体を捉えることは実質なく、認識している場所以外はすべて存在していないので整頓する根拠が発生しづらく、それでいて非常に移り気で盛んに活動するものだから、結果的に行動の動線が部屋に残っていってしまう。

片付ける段階でも視野が狭いのでどこに何があるべきか、どこが散らかっているかが把握できず、なんかよくわからないまま完了印を押してしまう。同居人と意見が相違するときは大体ここが原因になっている。


性格の問題は、単にぼくが「整理整頓」について常に疑念を抱き続けているからである。つまり、いずれ使うものを毎回奥深くに隠してしまうのは非効率的なのではないか?という至極真っ当な主張である。
この「いずれ使うものを毎回奥深くに隠してしまうのは非効率的な」行為をまともな人間は「整理整頓」と呼び、ぼくが行うと「リスがエサの隠し場所を忘れる」になる。そんな言い訳をし続けていても、一年以上共同生活を送ってきたのでリスも隠し場所を固定すればなんとなく思い出せるようになることがわかった。
そういうみんながなんとなく知ってるルールを改めて知ったりなどしている。成長がある。2021年夏。

お待たせしました。次はしろくまさんです。

*1:リソース確保の一行為であるストレージ購入は禊なのだろうか?買い替えは?しょうもないことばかり無限に考えてしまう

【2021.3.28-4.2】たちあがろうとしてもすべてがわたしで大地がない*1

 *1

 様々な異質なレイヤーをキャンバスの表面という一平面に力技で統合した*e ものとして立ち上げられる私や私の知る世界では、誰と誰が文通しているのか全くわからず*c 他者が私に介入*a して無理矢理書き出*d されたみたいなおまじない*b がかかっていて、それは一見個人の考えを無効化*b するようでいるのだけど、私たちは毎日*c 誰かと顔を合わせ*c 物語にひた*c ってTinderを介して会っ*e あの子との秘密の会話*c をして他者との交流*b に対する反応で生じる*a 細切れのあれもこれもが山積みになって*d それらを*d パッチワークのようにつなぎ合わせ*d てようやく私が私であってしまう*a 。ときどき扱いに困ってしまう*d 他者という存在そしてそれとの関わり合い*2私が私であることの責任*a。つまらない圧力はほどよく捨ててしまいたい。自分が自分の予想通りの動きをする*c ことの枠組みから抜け出せないような嫌な気持ち*c緩ませてあげるための*a 他人の存在*b 

 私*aぼく*b私*c自分*d私*eみんな*e安直に質問を投げかける*bあなた*c好き*c聞いてみたい*c 
 春。うれしいなあ。*c 暖かい陽射しが感じられ、風が気持ちいい場所*dそこで新しいものや出会いを手にしたい。*d 

 前置きが長くなりました。*c あるテクストと接するとき、読み手はそこに表現主体を読み取らずにはいられない*3私*aぼく*b私*c自分*d私*e と語る主体がいて、語る主体を客体として書き出す主体がいる。書き出す主体の身体*a は受け手には見えなくて、友人*c近しい身内*b であっても文章が書かれた瞬間の相手は想像することが精一杯。文章はまるで恋人たちの代理*d 人。3次元と2次元の往復*e をする皆さん*d からこぼれ落ちていくあれやこれを忘れないでいて欲しい。 *d ここでいろんなあなたが書いたいろんな私を並べ替えて配置する私は一体どこのだれ? 距離と「時差」のネットワーク(私たちのヨーロッパ地図に同時に灯っているすべての赤い点々)を通じて広がっている、いわゆる「直接的な」コミュニケーション(電話などのこと、それをテレパシーと呼んでほしい)の広大な地図を想像してごらん(そこで迷子になりながら、この地図を一緒に読んでみたい)*4他人の存在を意識した*b り、他人に語りかけ*b たり、ちょっと日記書いてみ*c たり、思うままに書い*e たり、何度も催促されてやっと*c 書いたり、即興の気分に従う*e ときに生じる重力*a は、だいぶ間が空いてしまっ*c たあなたに届く頃には自然消滅*d してしまう。届いてない*c手紙が失われ*c てしまうのはいつものこと。いつだってただしい宛先には届かない。そうやって自己同一的な主体観は解体*a されていく。でも、だからこそ、写真を撮っておいて良かった。*d うれしい*cきれい*cわくわく*cつらい*c悲し*dい、照れ*b る、おもしろい*e子どもたちがきゃあきゃあ言いながら遊*c ぶようないろんな景色*cピン留めして。*c 近づいてみると筆の跡が見えたりもするような解像度なのに*e不可思議な類似*aふわふわと*d 縁どられて象*a られる。そんな私をつなぎ*d 留め*c る名前。誰かがあなたの名前を呼びかける。

 niinaさん*aエビカニペカンナッツさん*a
 むーさん*bniinaさん*b
 エビカニさん*c
 しろくまさん*d エビカニペカンナッツさん*dniinaさん!*d
 エビカニちゃん*eむぅむぅさん*e
 私もまた誰かに呼びかける。
 「先日のanamoto*d さんの日記*abcde はとても読み応えがあり、それに対する一風変わった応答*b としてこの日記*abcde は書かれています。不安だ*d 」 

 わたしにとって大切で思い入れ*e のある固有名詞*b がいくつかある*5ナガノさん*bよしながふみ*cCAFELATORY*cTinder*e東京オペラシティ アートギャラリー*e千葉正也*euka*e 。他人の匂いがす(中略)他人の匂いがする!*6 染み付いてしまった私の匂い*a を他者が書き換えていく*a 誰かの存在*e現地調達できな*e くて、いくつものオブジェクト*e が恣意的に選択されて、並べ*e られて、並べられたモノたちを静物画として描*e いたみたいに浮かびあがる私は完結したノート*d にも似ている。すべてが仮構されたものでしかなく、私は私以外のひとが使用した言葉に支え*b られている。私が生まれる以前から存在*b していた言葉のあとをたどっています。独自のものは何もないかもしれません。*e 複数*a の人間のあいだを爆速で回*e言葉*b のなかには複数*a の声が侵入しています。複数の声が私の骨*a になっています。
 たくさんたくさん複製してそこらじゅうに積もって*c いる本の塔のてっぺんでは安心して目を閉じて呼吸して*d いられる。限られたスーツケース*b はもうぱんぱんだからたまには重荷*a を下ろして中身を入れ替えたりします。馴染まない*a こともありますが普段とは異なる回路で*a 互いを労う場面も発生する*d ことでしょう。そこでは家族*e を拡張するように*a 曖昧な*d 生きているっぽさがある*e 。人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということをつい忘れる*7。過去の私は永遠に私を痛めつける存在でいてほしい*810年をゆうに超える*b 20年経った今*c自分で驚きです。*c

「あなたが好きな場所はどこですか?」*c
 アンサー*d :紙のうえ、文字のなか
 言葉の*a 群れに折りたたまれて体験する私は世界と同期する。同期して、分割される。投函*cd した手紙は誤った宛先にうっかり届いて、もしくは私も誤って受け取って、それでもまあいいかってあとから正しかったことに訂正されることもある。そうやってなんとなく引き受けたり*e 引き受けなかったり*e して分割された体験がまた連*d なって束ねられていく。そんなイメージ*c 。天気予報が示す最高気温がどんどん高まっていく境目みたいに揺れていたい*abcde

*1:最果タヒ『グッドモーニング』(新潮社、二〇一七年)収録「会話切断ノート」から引用。また、同作には「日記は考えるための道具でしかありません」という一文があり、本稿はその一文に依拠しながら記述が試みられている。考えるための道具として日記を書くにあたり、本稿では「ユリイカ2017年6月号 特集・最果タヒ」に掲載された山本浩貴+h「空白の料理 わたしの部屋の配置によって染み込む死への温もりと、花畑を何重にもつみかさねたた実験場で見られる新たな系の制作」における制作方法を模倣している。同作は、「二〇一七年五月現在発表されている最果タヒ名義の詩集、ならびに対話から引用した文字列(ゴシックで示す)を恣意的に並べることで構成された小説=批評であ」(同作註)り、本稿はそれに倣い、『dia-lag』内で書かれた以下の「日記」から文字列を引用しながら新たな「日記」の構成を試みた。また、以下から引用した箇所は太字で示し、引用元は各アルファベットで示す。その他、一般的な「日記」としての体裁を保つために最近読んだいくつかのテキストからの引用も組み込んでいるが、それらは個別に注釈を付している。
(a)むぅむぅ「【2021.1.9-1.23】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手つき - dia-lag」(2021.1.23)
(b)エビカニペカンナッツ「おまじないが精神と生活を支えていく - dia-lag」(2021.2.17)
(c)しろくまうれしい気持ちをピン留めして。 - dia-lag」(2021.3.10)
(d)anamoto「扱いに困る / 完結した交換ノート / 消えた手紙 - dia-lag」(2021.3.17)
(e)niina「現地調達したりできなかったり - dia-lag」(2021.3.17)
(最終閲覧日:二〇二一年三月二十八日)

*2:最果タヒ『グッドモーニング』(前掲)収録「会話切断ノート」から引用

*3:いぬのせなか座「【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part7)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト|いぬのせなか座|note 」(最終閲覧日:二〇二一年三月二十八日)から引用

*4:ジャック・デリダ/訳・若森栄樹、大西雅一郎『絵葉書Ⅰ ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』、水声社、二〇〇七年から引用

*5:筆者にとって思い入れのある固有名詞は「GARNET CROW」「かってに改蔵」「重力ピエロ」「BOOKOFF」「アメーバブログ」「七里圭」「円城塔」「東浩紀」などが挙げられる。

*6:『グッドモーニング』(前掲)収録「術後」から引用 

*7:ホルヘ・ルイス・ボルヘス/訳・篠田一士『砂の本』、集英社、二〇一一年から引用

*8:最果タヒ『グッドモーニング』(前掲)文庫版あとがきから引用

現地調達したりできなかったり

書きたい時に書くのがいちばん、と思っているので今日回ってきた交換日記を今日回す。これまでのところ、みんな自分のペースで書いてくれていていい感じなので、私が急に爆速で回したところで誰もプレッシャーに感じたりはしないだろう。急に速くなったり遅くなったり、それがマイペースというものだ。

 

今仕事で東京にいる。宿は新宿。今日は12時ごろに起き、先日友達と行ったごはんもビールもおいしいビアバーにひとりでランチを食べに行く。食後、近くにあったチェーンのカフェに入り、休憩したのちPCを開いて少し仕事をする。仕事に飽きてきたところで、以前東京に来た時Tinderを介して会って、東京に来たらまた会おうと言っていた人のことをふと思い出し、連絡してみる。すると仕事場が私のいたカフェの近所だということで、すぐ来てくれた。本当にすぐ近くにいたらしく、そのカフェにもよく来ているそうで、「位置情報を監視されてるのかと思った」とびっくりしていた。もちろん位置情報を監視してなどおらず、偶然だ。偶然といえば、その人はテレビ番組の制作会社でディレクターをやっており、私が幼少期から家族で毎回観ていたある番組のディレクターを今務めている。前回会って話していてこのことがわかったときは驚いたしテンションがだいぶ上がった。Tinderではけっこうすごいことがけっこう高い確率で起こる。前回よりも打ち解けた空気感でお互いの仕事のことなどを話し笑い合って、1時間ほどで店を出て別れた。その後、東京オペラシティ アートギャラリーまで歩き、千葉正也個展を観る。もともと好きな画家ではあったが、展示を観るのは初めて。生で観た作品はもちろん、展示構成も素晴らしく、終始「あー、好き、どストライクですこういうの!」と思いながら観ていた。私は「絵画でしかできないことをやっている」ということを強く感じられる絵画が好きで、千葉正也の作品はその最たるものだと思っている。彼の制作の手法は、ざっくり説明すると、まず木材や日用品などを使ってオブジェクトを作成し、それらを緻密に並べ、その並べられたモノたちを静物画として描く、というものだ。写実主義を突き詰めたような繊細な筆致、というわけではなく、近づいてみると筆の跡が見えたりもするような解像度なのに、布、ガラス、木材、液体などのテクスチャーがありありと伝わってくる。描かれているモノの中には紙や液晶に映る写真もあり、描いている作者の目の前に実在していたはずのモノたちよりそこが妙に鮮烈に浮かび上がっていたりするのもおもしろい。「絵画でしかできないこと」とさっき書いたが、千葉正也の作品の場合それは、「様々な異質なレイヤーをキャンバスの表面という一平面に力技で統合したとき何が起こるかを実験している」というところだ。レイヤーは物質的なものも概念的なものも両方。そしてさらに彼は描いた絵画を自作の木製のスタンドを使い3次元に縦横無尽に配置する。3次元と2次元の往復。なんかまとまらないのでちゃんとしたことは買った図録を読み込んでからまた書こうかな、書かないかな。とにかくいい展示だった。その後晩ごはんを食べて帰って、今。

 

エビカニちゃんの質問は、10日間の東京出張を控えた私にとってはかなりタイムリーだった。今回実際に持ってきた「おまじない」は2つあって、ひとつはukaのネイルオイル、もうひとつはカワウソの赤ちゃんのぬいぐるみ。ネイルオイルは、とても香りが好きなのと、夜寝る前に爪に塗るとすごく自分を大事にしているという感じがするので気に入っている。それだけでなく、重要なのはこれが恋人からのプレゼントだということだ。遠出をする時、だいたいのものは現地で買えるから別に忘れてもいい、という心持ちでいるのだが、そういう誰かの存在とか思い入れは現地調達できない。ぬいぐるみの方は先日ひとりで水族館に行った時に買ったもの。長い間ひとりでいる時には、顔のついている、生きているっぽさがあるものがそばにいてくれると慰められる。そういえば、子供の頃も毎晩枕元に置いて寝ていたいちばんお気に入りのテディベアを旅行に必ず連れて行っていたな。

 

今回は、推敲をほぼせずに思うままに書いたので、読みにくいかもしれない。でもそういうふうに文を書きたい気分だったからそうした。気分に従うのは気持ちがいい。

 

次はむぅむぅさんです。

扱いに困る / 完結した交換ノート / 消えた手紙

こんにちは、anamoto です。

回ってくるまでは「早く書きたい!明日にでも書きたい!」と思っているのに、いざ回ってくるとなんとなく書き出せないのはなんでですかね。そうなることはなんとなく予想していましたが、実際に自分が自分の予想通りの動きをすると、枠組みから抜け出せないような嫌な気持ちになります。そして無理矢理書き出す。

 

扱いに困る山積みのあれやこれ

ちなみになんで書き出せないのかというと、日記が公開されてすぐはあれもこれも言及したいなという気持ちになるのですが、いざ自分の番になると、細切れのあれもこれもが山積みになってしまって、扱いに困ってしまうんですね。で、1つの日記としてそれらを書き連ねるにはパッチワークのようにつなぎ合わせる地道な作業が必要になってくると考えているんですけど、とにかくそれがしたくない。そういった作業が苦手なうえ、ズボラなんですね……無理はしない。そうはいいつつ、こぼれ落ちていくあれやこれを忘れないでいて欲しい、どこかに記録しておいて欲しいという当事者意識の欠落した願望がふわふわと頭の中を漂っている。

 

完結した交換ノート

交換日記、小学校~中学校にかけて何冊かやっていました。ちょっと奮発して鍵付きの交換ノートを買ってみたりね。そうして今も手元には何冊かの交換ノートがあるわけなのですが、完結しているものもあって、意外とちゃんと回していたんだな~など不思議な気持ちがしました。皆さんは、完結したノートってどうしていましたか?

 

あの頃一緒にいた子は、たぶん書いた内容とかはあんまり大事じゃなくて、読んで、書いて、回している、その時が大事だったんじゃないかと思います。誰も完結したノートを引き取りたがらなかったように記憶しています。曖昧な記憶ですが…

クラスで作った旗とかも、誰も引き取りたがらなくて、自分は特別思い入れがあるわけでもないのに、そのことがなんとなく悲しくて(ちやほやされていたのに突然突き放された感じがして可哀そうに思えて)引き取ってしまったりしていた。それは今でも部屋の中にいくつか残っていて、捨てようにも誰かを悲しませるような気がして、扱いに困ってしまう。本当にみんな、いらないの?

 

手紙を消す人

そうそう、しろくまさんの日記で「文通」の話がでていましたが、自分も文通をしていました。同じ学校の子ともしていたけど、それについては郵便は使いませんでした。あの頃雑誌で流行っていた(流行っていましたか?)ペンフレ募集や、お絵かき掲示板で出会った人と郵便を使った文通をしていました。で、自分はいわゆる 交換日記を消す人 ならぬ「手紙を消す人」でした。

しばらく手紙が途切れたあと「あれ?次どっちだったけ?」ってなるじゃないですか。その時に「たぶん◎月くらいに出したと思うんだけど…」と相手から手紙が届いた時期よりもあとの日付を伝えるんです。そうすると、当然「届いてない」と言われるわけですが、郵便事故または家族の誰かに投函を頼んだがその過程で手紙が失われた可能性を伝えて曖昧にするんです。最悪すぎる。

消すのにはもう1つ方法があって ”相手が出したお手紙が手元に届いていないことにする” という……良くないですね。

 

そういうわけで、あの頃の文通を自然消滅させたのは自分です。

 

 

小学校時代の代理人業務(?)

余談ですが、学内の文通の場合も伝達係や郵便係のようなものが自然発生していた時期もありました。その派生で喧嘩して直接口を利きたくない恋人たちの代理同士で話し合いを行う弁護士?にも似た業務が発生していたことも思い出し、なんだか懐かしい気持ちになりました。小学生、面白いですね。代理人同士、互いを労う場面も発生していました。

 

エビカニペカンナッツさんへのアンサー

1ヵ月のホテル生活に持っていくもの…というお題でしたが、何もないかもしれません。暇つぶしの道具が必要かもしれないと思ったのですが、その時の気分でやりたいことが大幅に変わるので、先に持ち物を決めて持っていってもほとんど役に立たないだろうと思ったからです。(その場で出会うものが好きというのもある。いつもと違う場所で過ごすなら、そこで新しいものや出会いを手にしたい。)

強いて言うなら、何をしたくなってもいいように「必要より多くのお金を持っていく」という面白みのない答えになってしまうな。などと考えながらも、お気に入りのカメラは現地で購入することはできないし、1つくらい荷物になるものがあってもいいかも…と思いました。

これが、1年とか2年とかもっと長期の話なら自宅にあるお気に入りの装飾品類を持って行ったりすると思います。装飾品類はお守りのようなものなので……

 

しろくまさんへのアンサー

好きな場所は、暖かい陽射しが感じられ、風が気持ちいい場所です。季節や天候によって、それがどこかは変わりますが、これがあれば基本気持ちよく過ごすことができます。常に心地いい場所を探して、安心して目を閉じて呼吸していたい。最近は個人経営の園芸店がお気に入りです。あとは近所の喫茶店とか。日当たりがいいんですよね~

 

最近のこと

最近は陽射しがあったかくなってきて嬉しいですね。車を運転していると眠くなってしまう。眠気やまどろみが好きなので非常に嬉しい季節です。少しずつ人と出かける機会も増えてきました。今日少し外に出たら、もう梅がほとんど散っていて、すこし寂しい気持ちになりました。このあいだ写真を撮っておいて良かった。

 

こんな感じでいいのかなぁ。実質初の交換日記という感じがあるので、不安だ。

 

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