dia-lag

ひとりで考える・書くことの限界を少しだけ押し広げるための装置としての交換日記、または遅い会話

うれしい気持ちをピン留めして。

こんにちは。しろくまです。

 

週間天気を見ていると寒いのも峠を越え、

春のあたたかな日差しと気温になってきました。

私は認めてはいませんが少し花粉症の気があり、

鼻をむずむずさせています。

 

交換日記、だいぶ間が空いてしまいました。

私が小学生だったとき、ご多分に漏れずそういうものはあったのですが、

「交換日記」というよりは「文通」が流行していました。

いきなり友人から自宅に「文通しよう!」と手紙が送られてきて、

手紙を書いて切手を貼ってポストに投函するのです。

 

だから、学校での受け渡しが発生しないので

誰と誰が文通しているのか全くわからず、

本人たちもわざわざ学校で文通の話をしないので

「あの子との秘密の会話」感がいっそう強いものでした。

 

私はというと、

「何故学校で会うのにわざわざ手紙も書かねばならないのか」

「誰かに見せる前提で書く日記は宿題でもうしているのになぜもう一度書かねばならないのか」

・・・という、交換日記・文通の存在意義そのものからまるっと否定するような疑問を持ち、

自分から文通を始めることもなければ、返信することすら

何度も催促されてやっと・・・というありさまでした。(ごめんなさい)

 

だから、あれから20年経った今、交換日記に自分から手を挙げて

こうやって文章を書いていることが、自分で驚きです。

(毎日顔を合わせる間柄でないのという前提はあるにしろ)

 

-------

 

前置きが長くなりました。

これは「交換日記」ということで、ちょっと日記書いてみます。

 

最近ちょっと体調がよくなく、寝ることをメインとして生活をしていたのですが

ちょっと体調が回復してきまして、久しぶりに近所の大きな公園まで

散歩に行くことができました。

 

そうしたら、思っていたよりもずっと春が来ていたようで、

桜とかたんぽぽとかオオイヌノフグリとか菜の花とか名前を知らない小さな花とかが

少しずつ咲いていて、

空が青くて、光も差し込んでいて、

子どもたちがきゃあきゃあ言いながら遊んでいて、

本当にきれいな景色が広がっていました。

 

3月ってこんなんだっけ!?と思いました。

私は雪国育ちなので、3月といえばまだ雪がそこらじゅうに積もっていて

(なんならまだ降雪もあって)、ストーブががんがんうなっているような

そんなイメージでしたので…。

 

いいなあ、春。うれしいなあ。

そんなことを考えながら歩く今日でした。

 

・・・本当にとりとめのないことだけれど、

このうれしい気持ちをピン留めして書いておくことができて、

そういう場所があってよかったなと、改めてこの日記いいなあと思いました。

 

-------------------------

さて、前回のエビカニさんの質問が面白く、ちょっと考えてみました。

私は、「推理小説」「よしながふみの漫画」「CAFELATORYの濃厚ミルクカフェラテ粉末」かな。

 

物語を読むのが好きなんです。

実用書や教養書も読むけれど、私の心の栄養になっているのはやっぱり物語です。

カフェラテを飲みながら物語にひたる時間はすごく幸せな時間です。

 

じゃあ、最後に私もひとつ、みなさんに聞いてみたいこと。

「あなたが好きな場所はどこですか?」

家の中の一角でも、お店でも、施設でも、違う街の場所でもかまいません。

 

私は、本屋さんです。ざっくりしてるな。

本がたくさんある場所は、旅先でもつい立ち寄って長居してしまいます。

本を買っても買わなくても、「本がたくさんある」だけで落ち着く・・・。

お気に入りの本屋を見つけたいなと思います。

 

行くとわくわくする場所。

うれしいことがあったときに行きたくなる場所。

つらいことがあったときに逃げこめる場所。

教えていただけたらうれしいです。

 

 

 

おまじないが精神と生活を支えていく

こんにちは。エビカニペカンナッツです。

なんだかにわかに春めいてきました。いかがお過ごしでしょうか。

ぼくはといえば、なんだか能動的になる必要に迫られ、気の休まらない生活をしていました。

交換日記もご無沙汰ですね、休めていた日記筋を久しぶりに働かせたいと思います。

 

前回のむーさんの取り組み、面白かったですね。

鳥。ぼくは鳥のことばかり日々考えています。確かにな。他の皆さんのも興味深かったです。

自分で放流したものではありますが、改めて触れられると照れてしまいますね…。

自分は結構、思考のスイッチが細かくはっきり分かれていて、現実的な考えと感傷的な考え、他人に語りかける文章、モノローグ、報告書的な文章、ユーモア、それぞれを織り交ぜることはあまりなく、一つの文章を書いているとき、その他の気持ちは他人事です。

なので、前回の記事はまず真ん中の「カニの話です」以降に続く、カニのモノローグをのみを書いたのですが、出来上がったものをみてモノローグだけではあまりにも親しみにくいだろうな、と前後を話しかける言葉、「他人に語りかける文章」でサンドしました。

他人の存在を意識した行動です。「交換日記」が他者との交流であることを自覚している証左でしょう。

 

交換日記って、本来かなりクローズドなものだと思うんです。

そのメンバー内の親睦を深めるような、交換日記の中だけの秘密ごとを共有しあったり、話のネタにしたり…

交換日記で交わされる問いかけを基に、集団内の親密度を上げていくのが目的のため、おのずと極々近しい身内ネタになっていくのが自然です。

しかし今回は「公開する交換日記」であり、かつ、会話、と称することが出来るようなやりとりを目的としています。

 

自分自身、公開する日記は随分と長く続けてきました。小中学生の頃からブログをやっていたぼくにとっては、オフラインの日記は2日と続けられなくとも、SNSやブログに投稿しなかった日は10年をゆうに超える中でも片手で数えられるくらいだと思います。(過言かも?)

しかしオンラインの「日記」は不特定多数の人間を想定しているのでLINEやメールに比べて、あるいは、「会話」に比べてかなり外に向いた内容になるのは必然です。

学生時代の交換日記にあったような、特定の先生の話、となりのクラスの好きな人、部活の愚痴、テスト対策、共通の友人のおもしろい話…

そういった話は出てきません。(出てくるのかも?)5人は住む場所も年齢も趣味も違う初対面の人達なので、現状身内ネタ、はほぼ存在しないに等しいでしょう。

 

不特定多数の目に触れてもよく、誰でも楽しめるように身内ネタは薄められ、内容はマイルドに、匿名性を高めたり、固有名詞を避け、認知度の高い語彙を使用したりなどの工夫を意識的に、あるいは無意識の癖で行うと思います。(実際、前回の自己紹介記事では必要以上に専門用語を使わないように意識した覚えがあります。)

 

そんなオンラインの公開交換日記を成り立たせる、「親睦を深めつつ、対外を意識する」「単なる交代のブログではなく会話として響きあう」ためにはどうしたらいいでしょうか。

そして個人的にメンバーとも親睦を深める、そんな機会にするにはどうしたらいいでしょう。

 

ここでぼくはプリミティブな交換日記に立ち返って、安直に質問を投げかけてみたいと思います。

 

【#1ヶ月のホテル生活に持っていきたい必需品はなんですか?】

 

これははじめ、「無人島に持っていく1つ程ではない必需品」という問いかけだったのですが、無人島はあまりにも現在の価値観をぶち壊す必要があるので逆に個人の考えを無効化してしまいます。

なので、ホテルに長期滞在する際の嗜好品、限られたスーツケースのリソースを割いてでも、「無いと1ヶ月我慢できないもの」を、よかったら教えてください。

仕事道具や生活の用品ではなく、あくまで個人のセレクトで持っていきたい嗜好的必需品を教えてくれると嬉しいです。

実益があるものないもの、様々とはおもいますが、それは本人の「安心」を担うものかと思います。

 

ちなみにこの質問を思いついたときの自分の「必需品」は、「敏感肌用眉毛かみそり」でした。所帯染みている。しかし眉毛は自分自身にとってすごく重要なパーツで、乱れているとすごく落ち着かないのです。

他は「ナガノさんの単行本」「お気に入りの香りのハンドクリーム」「アイマスクと耳栓」です。

ぼくは寝るのが極端に苦手で、病院にもかかっているくらいなのですが、(実際の睡眠は医療に頼っているとしても!)就寝ルーチンとしてこの3品があると心安らかに眠れるのです。

そんな半ば「おまじない」のような必需品、あなたにとってはどういったものがありますか?

 

(とはいえ、ダイアラグのはじめにniinaさんもこうおっしゃってるのであまりお気になさらず…)

 

 

必ず他の日記に対して応答する必要はないし、雰囲気を寄せようともしなくていい。もちろんしてもいい。

「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます - dia-lag

 

 それではまた。

【2021.1.9-1.23】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手つき

■概要(ぼんやりとしたまとめ)
 同じ姿勢で座り続けていたら、首や肩や腰のあたりが凝り固まってしまう。スマートフォンの操作という習慣に応じて変容した背筋首筋は大きく曲線を描いていて重心はずれるし骨盤も歪んで関節や関節周りの筋肉は負担を強いられている。ただでさえ直立二足歩行と重力との軋轢に挟まれて膝や腰は日夜苦しんでいるというのに。ひと休みしようと椅子に腰掛けたはずが、均質に整えられた硬くて平べったい椅子が身体に安息をもたらすはずもなく、腰を下ろしてみても一、二時間も経てばまた疲労を感じてしまっている。だけど、こうした凝りや疲労感はいつものことだから、いつものように受け入れて、抑圧がもたらす習慣と習慣がもたらす抑圧を基準に身体や身体から伝わる感覚の方を調整しようとする。
 それでもふと、ちょっとした息抜きに、軽く背伸びをしてみる。普段は動かさない、でもほんとうは動かせるはずの方向へ、腕を伸ばしたり、関節を回したり、背中を反らせたり。骨が軋むような音がする、いつもと異なる重力を感じる。日々の抑圧に縮み込んだ身体を緩ませてあげるための奇妙な抑圧。内面化した制限を押し広げていくための奇妙な制限。強い痛みを感じない程度に、かつ、可動域を拡張するように少しずつ負荷をかけていく。

 私が私であってしまうこの身体。そのどうしようもなさを一度括弧のなかに入れて、どうにか働きかけてみる。
 私の歩き方、書き方、話し方、怒り方、逃げ方、疑い方、敬い方、振る舞い方、選び方、消し方、戸惑い方、求め方、寄り添い方──あらゆる動作に染み付いてしまった私の匂いが、どんな位置にあって、どのように周辺が広がっているのかを確認し、把握できるかぎりの全体図を見通してみる。私が内包された環境と身体の象られ方を捉え、その外部まで視野を広げ、見えてきた全体像の中で私の再配置を試みる。そのためにどんな手段や方法論があるのか模索してみる。
 透明な檻に捕捉された私たちの身体や思考は、あるいはそれらを象る環境の形態は、きっともっと多様で可能性に満ちているはずだから。

 その手がかりとして、たとえば、私が書く文章の途中で他人が書いた文章を引用し挿入してみることで、みずからの書き言葉の相対化を図ってみるのはどうだろう。

相手の言葉に触発されて普段と違う考えがひらめいたり、相手に伝えようとすることで思いがけない表現が飛び出したり、また脱線を繰り返すことで話題が次々に変化したり、ひとつの話題の中でも次元の違う視座に辿り着いたり。人と話すこと、特に目的のない雑談においては、ひとりでは体験し得ない様々なことが起こります。
──niina「「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます」(はてなブログ『dia-lag』2020.12.29)

 この文章からは、私が書く文章とは異なるリズムを持ちながら、それでいて私が上記した文章と内容レベルではきっとそう遠くはない、という不可思議な類似が感じられる。
 他者が私に介入することで生じる〈ひとりでは体験し得ない様々なこと〉。これは、私が私でありながら、しかしその私なるものをあくまでひとつの素材として扱い、共同作業によって手が加えられることによって強いられる身体感覚の変容を意味していると言えないだろうか。いまこうして、他者の(どこか近接しているようで、しかし明らかに異なる)表現を用いながら新たな文章を書き出しているように。
 そして、こうした変容の過程によって身体の外側へと私を分散してあげられるような試行/実践の場を持てないだろうかとこの頃強く考えていた私にとって、交換日記という形式で複数人で循環させながら文章を書く営みには、求めていた場として機能してくれそうな、そんな予感を抱かずにはいられない。
 というようなことを、最初の手続きとして初回の記事でも書いたつもりでいる。

 今回はこの試行/実践の場で、いかなる手つきを用いるか、についてのアイデアを書き記しておきたい。

■目標(なにを?)
 私が環境に対する反応で生じていること、私の身体は私の中心ではないこと、この身体は絶対的な境界線ではないこと、つまるところ、私は絶対的で固有な存在では決してないということ。こうした前提に立ち、文章を書く/読むという行為を(とりわけ複数人の共同で行うことを)通して、果敢に身体をつくりかえていく。また、そうした営みが可能な場を整える。

■目的(なぜ?)
 「私は私である」という主体観に対し、「私が私であってしまう」という途方に暮れてしまうようなどうしようもなさを感じてしまうから、「私を私にしてしまう環境」に焦点を当てることで自己同一的な主体観を解体し、「私」のありようを再検討する。
 私が私であることの責任を放棄したいし、一貫性なんて重荷だから。とにかく無責任に。

■手法(どうやって?)
 先に行ったように、他のメンバーが書いた文章や語句を引用したり使用したりする、という手段をまずはとっかかりにしてみよう。自らの身体からは自然と出てこないような言葉を文章に織り込んでいく。手にする道具に合わせて身体や感覚のありようが変わってしまうように、遠くにあった言葉を引き寄せ、抵抗や馴染まなさを感じながら文章を書き、自らを相対化し、身体をも書き換えていく。そんなことを目標に据えてみる。
 同時に、自らの身体からつい出てきてしまいやすい語句の使用を制限してもよいかもしれない。
 とにかく、書く/読むという共通の行為を軸に多人数で持続的に行うことを目的とした動きのなかで、試せそうなことに挑んでみる。うまくいかなくたっていい。なによりも、試行/実践の過程こそが重要であるとひとまず考えておこう。

 では、具体的になにができそうか。
 たとえば、上記で引用したniinaさんの文章から、じぶんが書いたことに近しい文意を感じてしまうのはなぜだろうか。こうした問いを個人的な印象で片付けようとせず、最初の一歩は何も考えずさくっとテキストマイニングにでもかけてしまうとよい。客観的で確実なデータを介入させることで何かが見えてくるかもしれない。
 テキストマイニングを行えば、以下のように文中の頻出単語などが即座にわかる。

f:id:dia-lag:20210123191701j:plain

「「dia-lag」(ダイアラグ) はじめます」- dia-lagのテキストデータを素材に、「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 「「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます」では、どうやら「日記」「会話」「思う」「書く」などの語が多く使用されているようだ。「交換日記」に対する思いが記された文章であることが使用する単語にもあらわれている、と言えそう。

 つづいて私が前回書いた記事の頻出単語を見てみよう。

f:id:dia-lag:20210123192032j:plain

「【2016.10.15 - 2020.12.30】私が(どうしようもなく)私であってしまうこの身体を滲ませていくための手続き」 - dia-lagのテキストデータを素材に、 「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 この記事でも日記について──ひいては文章を書くことについて──記されていることから、先に見たデータと同様に「書く」「日記」という語が多用されている。また、「文章」「読む」「出来事」なども類する単語として挙げられそうだ。

 と、こんな塩梅で頻出単語を抽出して並べるだけで、少なくとも意味的に親縁な語を多く使用していることが明らかであり、部分的にはこの2つのテクストは近しい主題を扱って書かれたものであると言えるのかもしれず、文体こそ違えど不可思議な類似とやらを感じてもおかしくはないことがなんとなくわかる。
 客観的な類似性を確認するところまで機械的にはっきりさせておくと、じゃあ差異はなんだろう、逆に対立するところはどこにあるだろう……などと次のステップに進みやすくもなる。複数人で書く/読むことについての文章で、一方では「会話」というモチーフが使われていて、他方では「映画」というモチーフが使われていることからは何が見えるだろうか、その異なる二つの考えを用いて何かを生み出せるだろうか、とかね。

 この調子で全員分の初回の記事のテキストマイニングを行い、結果を比較・参照しつつ、あれこれ遊んでみようかなと思っていたのだが、体力にも限度があるから、今回はこの程度に留めておく。じぶんの文章を分析とか参照とかされるの嫌だなあ、という方がいたらその旨お伝えください、再考します。
 ただ、断りの申し出により試行案に取り組めなくなってしまうと残念でもあるから、いまのうちにいま公開されているすべての記事ごとの頻出単語だけでも並べさせてもらうとしよう。

f:id:dia-lag:20210123192822p:plain

2021年1月23日以前に公開されたはてなブログ『dia-lag』内の全記事のテキストデータを素材に、「User Local AIテキストマイニング」(https://textmining.userlocal.jp/)を用いて作成

 こうして5名が書いた文章にそれぞれ頻出している語を見ると、その多様さだとか、多様な中での近接性だとか、さまざま読み取りながらおもしろく眺めることができる。
 前述した「遠くにあった言葉を引き寄せ」ようとすることを念頭に置くと、エビカニペカンナッツさんの書いた記事の頻出単語は、私にとって特に遠くに感じられる。ここに挙がっている十個の単語をすべて使用して文章を書こうとしたならば、普段とは大きく異なる回路で文を考えなくてはならないような気がする。鳥、本能、理性、エサ……こうした語をじぶんはどのように扱えるのだろうか。まるでわからない。こうした抵抗感こそをどんどん引き受ける。引き受けて抵抗を和らげていく。そのための方法論を考える、試行する、試行しながらまた考える、意見をもらう、考えて、また試行する。そんなことをやってみたい。
 ね、なかなかおもしろいと思いませんか。

■懸念(ほんとうに大丈夫?)
 はたしてこれは「日記」なのだろうか。

■対策(ほんとうに大丈夫?)
 たまにはそういうことも試してみたい、ということにしておこう。毎回だと大変そうだし、やっぱり無責任でありたいもの。

交換日記を消す人

小学生でいる間、通算何冊の交換日記に参加したのだろう。

低学年の頃は、「ブルーなできごと」「〇〇ランキング」「みんなにしつもん」とか様々な枠が用意されている交換日記用のノートを使っていた。南京錠が付いていて、鍵を持っている参加者しか開けないようになっているノートなんかもあった。それが高学年になるにつれて、だんだん罫線のみの普通のノートを使うようになっていった。なんかそっちの方が大人っぽいぞと思い始めてそうなっていったような記憶があるが、今になって考えてみれば、だんだん文字を書いたり絵を描いたりする能力が発達してきて、自由度の高さを楽しめるようになってきたということだったんだろう。

かけもちなんて当たり前、次々に生まれては消えていった交換日記たち。生まれるきっかけはクラス替えだったり、みんなで雑貨屋に遊びに行ってたまたま見つけたかわいいノートだったり。本当に幼稚で申し訳なく恥ずかしい記憶ではあるが、特定のクラスメイトの悪口をこっそりと綴るために生まれた交換日記もあった。

では消えるときは? 交換日記がどうやって消えていくのか、わからない人にはわからないのかもしれない。でも私にはわかる。なぜかというと、当然、私が「消して」いたからだ。

生まれた当初は盛り上がる交換日記だが、徐々にみんな熱を失っていき、内容が雑になったり回すペースが遅くなってきたりするのが常だ。それでも中には毎回丁寧に書きすぐに回す律儀な子もいる。もちろんそれは私ではない。ページいっぱいに「なにもありませんでした!!!!!」とかなんとかでかい字で書いてやけっぱちに次に回す大胆な子もいる。これも私ではない。

前者にも後者にもなれない私がどうするかというと、交換日記を「消す」のだ。自分のところに回ってきてから数日は、書かなきゃ書かなきゃと思いながら過ごすが、そのうち「もういいか」と思う瞬間が訪れる。だってもう盛り上がってないし。みんなどうせめんどくさがってるし。そしてノートを机のいちばん深い引き出しの奥にしまう。いや、隠す。

もう盛り上がっていない交換日記だから、しばらく回ってこなくてもなかなかみんな気づかない。しかしある日、誰かが言う。「あの交換日記って今誰が持ってる?」。私は答える。「えー知らなーい。私回したよー」。ひとつの交換日記が消える瞬間である。

 

このdia-lagという交換日記は、システム上、私だけでなくメンバーなら誰でもブログという支持体ごと「消す」ことができる。でもブログの場合はノートの場合と違って、消えたことがみんなにわかってしまう。それでは不在という存在を後に残してしまうからダメだ。実体のあるノートの方がデータだけのブログよりも消しやすいなんておもしろいですね、というお話でした。

 

寂しさを塵に見立てて箒で散らす

どういう書き出しでいけばいいのか悩みに悩んで、結局それをそのまま書くことにしました。時々、書きたいことがあって、ブログの記事作成画面を開いたりするのですが、書き出しに悩んで一切筆をすすめられないまま、その画面を閉じることが多くあります。どこにも出力されないまま消えていくことのなんと多いことか……

 

それは少し寂しいことのようにも思うけれど、いちいち気に病んでいても仕方がない。そう考えて、寂しさを塵に見立て箒で散らすようなイメージをする。ほんの些細な塵だから、散らせば目につかなくなる。

 

そうやって、気持ちを平らかにすることを続けているのですが、それはあまり良くないことだという感じがしています。自分の気づきや感情をないがしろにしているような感じがするから。だけど私は自分のために何か成すための意思が弱い傾向にあるので、どうしても些細な塵を適当に散らして、掬い取る労力を惜しんでしまいがち……

 

そんな時に、niina さんがこの交換日記の企画に誘ってくれて、「ウワーッ!絶対やりたい!」と思ったのでした。不自由さや束縛を感じない、私が望むだけの強制力がそこにはあるような気がしたから。

 

「dia-lag」(ダイアラグ)はじめます に記載のあった

必ず他の日記に対して応答する必要はないし、雰囲気を寄せようともしなくていい。もちろんしてもいい。そんなゆるい影響しあい 

についても非常に楽しみです。

 

口頭やSNSでの会話って、ひとつひとつにリアクションや共感が必要なように感じてしまって、その意識からか人やコミュニティから遠く離れたくなることが時々あります。でも影響しあいたくないわけじゃないんです。人と共にあっても、影響しあっても、常に自由でありたい。そうすることで、些細な塵が形を成して、私は私を捨てることなく、ここに居られるのではないかと、そんな気がしています。

はじめまして、しろくまです

はじめまして、しろくまです。
東京に住んでいます。
好きなものは乳製品と本と文具です。


2020年最後の日の日記として。


コロナ一色だった2020年は、私に心境の変化をもたらしました。
序盤から中盤にかけてけっこうしんどいことがあって、「自分ダメだ」と思って落ち込んだり呻いたりしていたのですが、
ある日一周回って「今がダメなら、伸びしろしかないじゃない」ということに気づいたんです。


なので、
人生でほぼ初めて髪を染め
めちゃくちゃ短く髪を切り
新しい、ちょっといい化粧品を買い
肌をきれいにする機械を買い
かわいい色のマグカップを買い
かわいい指輪を買い
うれしかったことや綺麗だったものを記録し
心ときめかないものとお別れし
心ときめく人とたくさんお話し
心ときめく本を読み
大好きな舞台を観に行き
初めましての人とおしゃべりしました。


そうしたら、なんか心がふっと軽くなっていっていました。
「あっ、なんか私けっこう最高じゃない?」みたいな。(単純)
私のペースでゆっくり世界を広げていって、人生楽しみたいなと思ったんです。
たぶんそれが表情にも出ていて、「なんか最近生き生きしてるね」と言われることが増えました。うれしい。私は最高。(単純)

ちょうどそんなときに、niinaがこの交換日記をはじめるよ~って告知してくれて
まあ迷わず飛び込みました。

2021年の私には、世界はどう見えるんだろう?
他の人が見ている世界を、私はどう感じるんだろう?
もう、楽しみで仕方がない!

流れる時は川や風を行く

f:id:dia-lag:20201231231520p:plain

エビカニペカンナッツ近影


こんにちは。エビカニペカンナッツです。

早速ですが、みなさんの自我は、経験と記憶などの学習に、理性に基づいているでしょうか、それとも、ほぼ本能のまま生きているでしょうか。

後者だと言い切れる人はなかなか居ないんじゃなかろうか、人間には大きな脳があり、多かれ少なかれ理性によって自律して暮らしているはずではあります。社会性生物とは、一度組してみると抜け出すのが難しく、大変興味深いものです。

 これは社会性生物以外と暮らすカニの話です。

 

ひと月前に鳥を飼い始めた。

それは小さくて、軽く、薄茶色の羽の混じった白いフワフワだ。

迎え入れた時はまだ立つこともおぼつかず、手のひらの上でひねもす眠り、目が覚めてはエサをねだり、ぼさぼさの羽ととんでもない食欲の持ち主だった。

ひとつき経った今では、ひとりでモリモリとエサを食べ、部屋をぐるぐるとパトロールしては手のひらや肩に乗り、エサの好き嫌いを珍奇な声で高らかにさえずりながら自己主張している。

ぼくは大学時代、ヒヨコについて研究していた。

みんなの知っての通り、鳥ははじめにみたものを覚え、親としてついていき、エサをもらったり身を守ったりする。*1

ぼくはそれを比喩ではなく千回以上繰り返した。ヒヨコの甘香ばしい匂いを嗅ぎながら一時期を過ごし、鳥の学習記憶や本能について想いを馳せたことは豊かな時間だった。

 

そして最近のぼくは日々、鳥の良き隣人であるために信頼を勝ち得ようと試行錯誤している。

鳥はその小さな脳の中で何を考えて過ごしているのだろうか。

人間と価値観の大きく違う鳥たちは、脳の使い方も随分ちがう。

世間では記憶力がどうだと話題に上がる海馬も、ニワトリの中でどう使われているかはまだはっきりしていない。*2

その上鳥は阿呆の象徴として度々風評被害さえ受ける。

覚えたことをすぐに忘れる、だとか、エサと石の区別がつかずひたすら突っつき続ける、だとか。部分的に正しかったり習性上仕方のないことであったり、全くそんなことはないようなこと、様々、とはいえやはり、みな身近な他者である“鳥”については興味津々なのである。

(好意的な解釈を含む)*3

 

暮らす限り鳥は非常に感情豊かで、臆病者のわりに好奇心が強く、食べ物には好き嫌いがあり、名前を呼ばれるとビューンと飛んでくる。

本能、と呼ばれるDNAにプログラムされたこと以上の行動を次々に示してくれるのだ。

小鳥は毎日すこしずつ学習し、はじめは怯えていたブランコには喜んで乗るようになり、まずそうな健康的なエサはばらまき、人間の手に求愛する。

 

この他者は、間違いなく合理やDNAでは解決できない後天的な学習によって個性を形作っている。その思考の軌跡はもはや理性という他ない。彼らには理性があるのだ。

 

ただ求愛行動をとることは本能に変わりなく、見覚えのないものに怯えるのも飛べる生き物と暮らしてなくても空を飛ぶのも、本能から来る行動だ。

本能と理性の境目はどこだろう、個性や自我といった多様性はどのように獲得していくのだろう。身近な生き物の成長は新しい視点を与えてくれる。

代わって皆さんはどうでしょう。これを読んでいるのはおおむね人間かとは思いますが、自分の理性と本能の境についてどれくらい考えたことがありますか。

ぼくは暇さえあれば自分の思考の中で、他者と代替可能な部分を探しています。

ぼくがぼくでなくても同じ思考に至る、いわば本能の部分を探って面白がっています。

 

それは理性と本能の境、そのグラデーションの混ざり、すなわち個性/自己を見つけるのに関心がある時期だからでしょうか。鳥と人間との種族に基づくような大きな価値観の違いだけでなく、人間同士でも価値観は些細な相違、あるいは大差あることを我々は、ぼくは、経験の上で知っています。

経験、環境、思考、そして本能が混ざり合って個人という大きなグラデーションを形成している、それの共通項や相違点を見つけることが他者とのコミュニケーションの面白さだとぼくは思っています。

コミュニケーションの純度を上げる、“遅い会話”を通して、ぼくは互いのグラデーションを垣間見れることを期待しています。

 

*1:正しくは条件があり、はじめにみたもの、というわけではないがほぼその通りである。ローレンツは偉大だ

*2:薄くのっぺりとした膜のようなその部位は、とりあえず親の認識にはさほど関わっていないらしい

*3:前述の学習行為についてはかなり長期的な記憶となるし、鳥は種類によって消化のために石を必要としたり、危険物の学習についてもかなり強力だ。大変に賢く、ぼくは自鳥に怯えられないよう慎重に、恭しく、丁寧に暮らす必要がある。